2008年07月22日
これが最後よ~ポーランドこぼれ話<6>
今や世界に広がる「SUSHI」。
古都クラクフにもお寿司屋さんがありました。 クラクフはバルト海から数百キロも内陸にあります。
それでも握り寿司がたべらっれるって、すごいですね。?

高級そうな店構え。恐る恐る中をのぞいてみると…。
カウンターがあり、ショーケースにはネタが並んでいます。
まさしく日本のお寿司屋さんです。もちろん、お寿司は回ってません。
たった一つ違うのは、板前さんもお客さんも外国人(自国人というべきか)。
優雅に、握り寿司をつまんでいます。
懐ろ具合もよろしくないので、そのままUターンしました。

ポーランドでは日本車もたくさん走っています。
トヨタだけじゃなく、ニッサンやホンダも目にしました。
ルブリンの郊外ではスズキの看板も発見しました。
外国を旅してて、いつも戸惑うのが発音の違い。
特に地名は要注意。例えば日本語ではポズナニですが、こちらではポズナン。
自主管理労組「連帯」発祥の地グダニスクはグダンスク。


もともと英語力があるわけでもないの、出たとこ勝負のきまぐれ紀行。
これまで大きなトラブルにも遭わず、異国遍歴を重ねてきました。
さて次回の旅は…。これからもお付き合いくださいね。
【写真1】かなり高級なお寿司屋さん。けちけち旅行者には敷居が高すぎる
【写真2】メーン道路のそばにあった日本の自動車メーカーの巨大看板
【写真3、4】こちらは世界のあちこちでお目にかかる。もちろん某清涼飲料も
★ ★ ★ ★
T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク
古都クラクフにもお寿司屋さんがありました。 クラクフはバルト海から数百キロも内陸にあります。
それでも握り寿司がたべらっれるって、すごいですね。?
高級そうな店構え。恐る恐る中をのぞいてみると…。
カウンターがあり、ショーケースにはネタが並んでいます。
まさしく日本のお寿司屋さんです。もちろん、お寿司は回ってません。
たった一つ違うのは、板前さんもお客さんも外国人(自国人というべきか)。
優雅に、握り寿司をつまんでいます。
懐ろ具合もよろしくないので、そのままUターンしました。
ポーランドでは日本車もたくさん走っています。
トヨタだけじゃなく、ニッサンやホンダも目にしました。
ルブリンの郊外ではスズキの看板も発見しました。
外国を旅してて、いつも戸惑うのが発音の違い。
特に地名は要注意。例えば日本語ではポズナニですが、こちらではポズナン。
自主管理労組「連帯」発祥の地グダニスクはグダンスク。
もともと英語力があるわけでもないの、出たとこ勝負のきまぐれ紀行。
これまで大きなトラブルにも遭わず、異国遍歴を重ねてきました。
さて次回の旅は…。これからもお付き合いくださいね。
【写真1】かなり高級なお寿司屋さん。けちけち旅行者には敷居が高すぎる
【写真2】メーン道路のそばにあった日本の自動車メーカーの巨大看板
【写真3、4】こちらは世界のあちこちでお目にかかる。もちろん某清涼飲料も
★ ★ ★ ★
T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク
2008年07月21日
さようなら悲劇の地~ポーランド紀行<15>
9日目の朝が来た。薄いカーテン越しに明るい日差しが差し込んでいる。
大きな窓から外をみた。大聖堂の尖塔の向こうに、透明感のある青空が広がっていた。
ポーランドで初めて体験する秋晴れだ。太陽は、遠来の異邦人を受け入れてくれたのだろう。
まずアダム・ミツキエヴィチ公園に足を伸ばす。
東西冷戦の終結。その原動力となったポズナニ暴動。その記念碑が、この公園にあるのだ。
2本の柱を組み合わせたような記念碑。高さ20メートル余り。そのスケールに圧倒される。
樹木の多い、手入れの行き届いた公園。天気が良いせいか、ひなたぼっこをする市民も。
あれから半世紀。歴史の現場をいかに残し、いかに伝えるのか。
これは、かなり難しい問題だろう。
続いて旧市街広場へ。中世の街にタイムスリップしたような不思議な感覚が広がる。
第2次大戦で灰燼に帰したが、不屈の市民たちがレンガを積み上げ、往時のまま復元したのだ。
便利さばかりを追い求めるのではない、街づくりの一つのあり方を教えられた思いがした。
今回の旅の目的は、ほぼ達成した。
再び列車でワルシャワに戻る。午後6時過ぎ、すっかり日は暮れた。
ホテルはワルシャワ中央駅から5分。早めに食事を済ませ、眠りについた。



10日目の朝。日本へ戻る日が、ついにやってきた。
アリタリア機、ワルシャワ空港からスイスアルプスを越えてミラノへ。
約2時間のトランジット。午後3時、関空へ向けてテークオフ。



約10時間のフライト。翌日午前9時過ぎ、関空に無事ランディング。
ひろしま出発から11日。長いようで短かったポーランドの旅。
旅のスタイルは人さまざま。これからも、こだわりの旅を続けたい。
<お礼>これでポーランド紀行は終わりました。5カ月間の中断を挟む長期連載。ご愛読に感謝します。
【写真1、2】ワルシャワーミラノ便の機内食。パンケーキとジュースとコーヒー
【写真3】上空から見下ろす雄大なスイスアルプス。もう雪化粧
【写真4】ミラノ空港で食べたピッツア。1ユーロ(約170円)だった
【写真5】ミラノ関空便の夕食。肉か魚がチョイスできる。これは肉
【写真6】日本到着前に出された朝ごはん。パンがいまいちだった
大きな窓から外をみた。大聖堂の尖塔の向こうに、透明感のある青空が広がっていた。
ポーランドで初めて体験する秋晴れだ。太陽は、遠来の異邦人を受け入れてくれたのだろう。
まずアダム・ミツキエヴィチ公園に足を伸ばす。
東西冷戦の終結。その原動力となったポズナニ暴動。その記念碑が、この公園にあるのだ。
2本の柱を組み合わせたような記念碑。高さ20メートル余り。そのスケールに圧倒される。
樹木の多い、手入れの行き届いた公園。天気が良いせいか、ひなたぼっこをする市民も。
あれから半世紀。歴史の現場をいかに残し、いかに伝えるのか。
これは、かなり難しい問題だろう。
続いて旧市街広場へ。中世の街にタイムスリップしたような不思議な感覚が広がる。
第2次大戦で灰燼に帰したが、不屈の市民たちがレンガを積み上げ、往時のまま復元したのだ。
便利さばかりを追い求めるのではない、街づくりの一つのあり方を教えられた思いがした。
今回の旅の目的は、ほぼ達成した。
再び列車でワルシャワに戻る。午後6時過ぎ、すっかり日は暮れた。
ホテルはワルシャワ中央駅から5分。早めに食事を済ませ、眠りについた。
10日目の朝。日本へ戻る日が、ついにやってきた。
アリタリア機、ワルシャワ空港からスイスアルプスを越えてミラノへ。
約2時間のトランジット。午後3時、関空へ向けてテークオフ。
約10時間のフライト。翌日午前9時過ぎ、関空に無事ランディング。
ひろしま出発から11日。長いようで短かったポーランドの旅。
旅のスタイルは人さまざま。これからも、こだわりの旅を続けたい。
<お礼>これでポーランド紀行は終わりました。5カ月間の中断を挟む長期連載。ご愛読に感謝します。
【写真1、2】ワルシャワーミラノ便の機内食。パンケーキとジュースとコーヒー
【写真3】上空から見下ろす雄大なスイスアルプス。もう雪化粧
【写真4】ミラノ空港で食べたピッツア。1ユーロ(約170円)だった
【写真5】ミラノ関空便の夕食。肉か魚がチョイスできる。これは肉
【写真6】日本到着前に出された朝ごはん。パンがいまいちだった
2008年07月19日
ポズナニ…はるかなる旅路~ポーランド紀行<14>
そして8日目の朝が来た。
3日間を過ごした古都クラクフのホテルを早朝にチェックアウト。
ワルシャワから西へ300キロにあるポズナニを訪ねることにしたからだ。
ポズナニはポーランド建国の地。
ワルシャワとベルリンを結ぶ要路にあったポズナニは、第2次世界大戦で徹底的に破壊される。
1956年6月28日、さらなる悲劇がポズナニを襲った。それが「ポズナニ暴動」だ。
生活改善を求める学生や労働者による反政府・反ソ連デモ。
ソ連軍の介入を恐れる政府は強圧的な鎮圧に乗り出し、数百人が死傷する大事件となった。
この出来事が一粒の種となり、東欧の民主化運動として開花したのだ。
1956年「ハンガリー動乱」、1868年「プラハの春」と続き(いずれもソ連軍が弾圧)、
1980年、グダニスクで自主管理労組「連帯」が組織されるにいたる。
ポズナニ暴動は、東欧「独立」を経てソ連邦解体へいたる、東西冷戦終結の原点なのだ。
でも、ポズナニはあまりに遠い。まずクラクフから列車でワルシャワへ。
ノンストップで約3時間。ほどよい列車の揺れが心地よい。
すぐに眠りに落ちた。正午前、列車はワルシャワ中央駅に滑り込んだ。
ここで弱気の虫が目覚めた。「このままワルシャワにとどまり、のんびりしたいなあ」。
「戦争の悲劇・狂気を学ぶために、お前はここに来たんだろう。そんなことでどうする」。
ためらいは一瞬だった。ヒロシマ人として、その答えは明白だった。

さらに列車で4時間。午後4時前、やっとポズナニに到着した。
ポズナニの空にも太陽は見当たらない。夕闇が迫る駅から、ホテルへ急いだ。
荷物を投げ出し、ベッドに横たわる。広い窓からポズナニ大聖堂が一望できた。
<後日談>旅の7―9日目を撮影したSDカードが見当たらない!! 入院騒動もあり、バックアップもしていなかった。メモ帳もすでに紛失。整理整頓の大切さを改めて実感。今回掲載したポズナニ大聖堂の写真は昨年11月8日掲載分の再掲載です。
【写真】ポーランド最古のキリスト教会・ポズナニ大聖堂。第2次大戦で破壊されたが、戦後に再建された
<T上司ランチ漫遊もヨロシク!!>
3日間を過ごした古都クラクフのホテルを早朝にチェックアウト。
ワルシャワから西へ300キロにあるポズナニを訪ねることにしたからだ。
ポズナニはポーランド建国の地。
ワルシャワとベルリンを結ぶ要路にあったポズナニは、第2次世界大戦で徹底的に破壊される。
1956年6月28日、さらなる悲劇がポズナニを襲った。それが「ポズナニ暴動」だ。
生活改善を求める学生や労働者による反政府・反ソ連デモ。
ソ連軍の介入を恐れる政府は強圧的な鎮圧に乗り出し、数百人が死傷する大事件となった。
この出来事が一粒の種となり、東欧の民主化運動として開花したのだ。
1956年「ハンガリー動乱」、1868年「プラハの春」と続き(いずれもソ連軍が弾圧)、
1980年、グダニスクで自主管理労組「連帯」が組織されるにいたる。
ポズナニ暴動は、東欧「独立」を経てソ連邦解体へいたる、東西冷戦終結の原点なのだ。
でも、ポズナニはあまりに遠い。まずクラクフから列車でワルシャワへ。
ノンストップで約3時間。ほどよい列車の揺れが心地よい。
すぐに眠りに落ちた。正午前、列車はワルシャワ中央駅に滑り込んだ。
ここで弱気の虫が目覚めた。「このままワルシャワにとどまり、のんびりしたいなあ」。
「戦争の悲劇・狂気を学ぶために、お前はここに来たんだろう。そんなことでどうする」。
ためらいは一瞬だった。ヒロシマ人として、その答えは明白だった。
さらに列車で4時間。午後4時前、やっとポズナニに到着した。
ポズナニの空にも太陽は見当たらない。夕闇が迫る駅から、ホテルへ急いだ。
荷物を投げ出し、ベッドに横たわる。広い窓からポズナニ大聖堂が一望できた。
<後日談>旅の7―9日目を撮影したSDカードが見当たらない!! 入院騒動もあり、バックアップもしていなかった。メモ帳もすでに紛失。整理整頓の大切さを改めて実感。今回掲載したポズナニ大聖堂の写真は昨年11月8日掲載分の再掲載です。
【写真】ポーランド最古のキリスト教会・ポズナニ大聖堂。第2次大戦で破壊されたが、戦後に再建された
<T上司ランチ漫遊もヨロシク!!>
2008年07月18日
古都クラクフの陰鬱~ポーランド紀行<13>
日本を出発して7日目の朝がやってきた。
ホテルのバイキングでしっかり腹ごしらえをして、世界遺産クラクフ旧市街の散策だ。
これで今回の旅の目的のほぼ9割を終えることになる。
中世の面影を色濃く残す古都クラクフ。
17世紀初頭のワルシャワ遷都まで、ポーランド王国の首都として繁栄を極めた。
第2次大戦の被害を奇跡的に免れ、1978年に世界遺産に登録された。


きょうも冷たい雨が降っている。
ポーランドには明るい太陽はないのだろうか。
10月28日日曜日午前9時、気温は摂氏2度。しっかり着込んでホテルを出発した。
まずはトラム(路面電車)で、ヴィスワ川のほとりに立つヴァヴェル城へ向かう。
旧市街南端のヴァヴェル城を起点に、夕方まで徒歩で旧市街をめぐるつもりだ。
ゆるやかな坂道を上がると、石造りの城門が迎えてくれる。


城門をくぐると、すぐ左手に壮麗な大聖堂が姿を現す。
金色のドームがジグムント・チャペルで、ルネサンス建築の最高傑作といわれる。
さらに坂道を上り、やっと王宮の入口にたどりついた。
王宮は16世紀初頭に建てられたもので、ゴシックとルネサンスの複合様式だ。
現在、王宮は博物館として公開されている。入場料は、たぶん15ズロチ(約600円)。
入場の順番を待つ子どもたちがいた。小学校低学年くらいだろうか。

この子どもたち、日本人的感覚で言うとすでに真冬の装い。
10月下旬でこうだから、厳寒1~2月の厳しさはどれほどなのだろう。
無邪気なはずの子どもたちに覇気が感じられないのは、寒さのせいなのか。
王宮の観光を終え、同じ坂道をとろとろ下る。
市庁舎、修道院、大司教宮殿、聖ヤン教会と旧市街には見どころが多い。
午前11時半、雨はやんだが、太陽は顔を出さない。


やはり10月下旬は観光には厳しい時季だったのか。
ランチ休憩をはさんで、ヴァヴェル城南東1キロにあるカジミェシュ地区に足を延ばす。
映画「シンドラーのリスト」の舞台となったユダヤ人ゲットーがあったところだ。
アウシュビッツは、このゲットーから西へ約50キロ。車で1時間の距離だ。
2日前に訪ねたアウシュビッツの重い体験が、脳裏にフラッシュバックした。
ヒロシマ人としてどう行動すればいいのか、心が晴れないのは天気だけのせいではないだろう。


ポーランド7日目の夜がきた。陰鬱な1日が終わろうとしている。
あさって火曜日にワルシャワに戻らなければ、木曜に日本には帰れない。
心の整理がつかないままベッドに入ったが、眠りはすぐには訪れてはこなかった。
【写真1】クラクフ旧市街を走るトラム。観光客には安くて便利だ
【写真2】旧市街から、王宮を望む。きょうも嫌な雨だ
【写真3】なだらかな坂道を上ると頑丈な門があった
【写真4】大聖堂。金色のドームがジグムント・チャペル
【写真5】王宮中庭。ぐるりと壮麗な建物が並ぶ
【写真6・7】旧市街の歴史的建造物(取材メモをなくしたため詳細は不明)
【写真8】ユダヤ人ゲットーがあったカジミェシュ地区
【写真9】ユダヤ教礼拝堂オールド・シナゴーグ
<T上司ランチ漫遊もヨロシク!!>
ホテルのバイキングでしっかり腹ごしらえをして、世界遺産クラクフ旧市街の散策だ。
これで今回の旅の目的のほぼ9割を終えることになる。
中世の面影を色濃く残す古都クラクフ。
17世紀初頭のワルシャワ遷都まで、ポーランド王国の首都として繁栄を極めた。
第2次大戦の被害を奇跡的に免れ、1978年に世界遺産に登録された。
きょうも冷たい雨が降っている。
ポーランドには明るい太陽はないのだろうか。
10月28日日曜日午前9時、気温は摂氏2度。しっかり着込んでホテルを出発した。
まずはトラム(路面電車)で、ヴィスワ川のほとりに立つヴァヴェル城へ向かう。
旧市街南端のヴァヴェル城を起点に、夕方まで徒歩で旧市街をめぐるつもりだ。
ゆるやかな坂道を上がると、石造りの城門が迎えてくれる。
城門をくぐると、すぐ左手に壮麗な大聖堂が姿を現す。
金色のドームがジグムント・チャペルで、ルネサンス建築の最高傑作といわれる。
さらに坂道を上り、やっと王宮の入口にたどりついた。
王宮は16世紀初頭に建てられたもので、ゴシックとルネサンスの複合様式だ。
現在、王宮は博物館として公開されている。入場料は、たぶん15ズロチ(約600円)。
入場の順番を待つ子どもたちがいた。小学校低学年くらいだろうか。
この子どもたち、日本人的感覚で言うとすでに真冬の装い。
10月下旬でこうだから、厳寒1~2月の厳しさはどれほどなのだろう。
無邪気なはずの子どもたちに覇気が感じられないのは、寒さのせいなのか。
王宮の観光を終え、同じ坂道をとろとろ下る。
市庁舎、修道院、大司教宮殿、聖ヤン教会と旧市街には見どころが多い。
午前11時半、雨はやんだが、太陽は顔を出さない。
やはり10月下旬は観光には厳しい時季だったのか。
ランチ休憩をはさんで、ヴァヴェル城南東1キロにあるカジミェシュ地区に足を延ばす。
映画「シンドラーのリスト」の舞台となったユダヤ人ゲットーがあったところだ。
アウシュビッツは、このゲットーから西へ約50キロ。車で1時間の距離だ。
2日前に訪ねたアウシュビッツの重い体験が、脳裏にフラッシュバックした。
ヒロシマ人としてどう行動すればいいのか、心が晴れないのは天気だけのせいではないだろう。
ポーランド7日目の夜がきた。陰鬱な1日が終わろうとしている。
あさって火曜日にワルシャワに戻らなければ、木曜に日本には帰れない。
心の整理がつかないままベッドに入ったが、眠りはすぐには訪れてはこなかった。
【写真1】クラクフ旧市街を走るトラム。観光客には安くて便利だ
【写真2】旧市街から、王宮を望む。きょうも嫌な雨だ
【写真3】なだらかな坂道を上ると頑丈な門があった
【写真4】大聖堂。金色のドームがジグムント・チャペル
【写真5】王宮中庭。ぐるりと壮麗な建物が並ぶ
【写真6・7】旧市街の歴史的建造物(取材メモをなくしたため詳細は不明)
【写真8】ユダヤ人ゲットーがあったカジミェシュ地区
【写真9】ユダヤ教礼拝堂オールド・シナゴーグ
<T上司ランチ漫遊もヨロシク!!>
2008年07月11日
地底100メートルの礼拝堂~ポーランド紀行<12>
ここはクラクフ近郊、世界遺産「ヴィエリチカ岩塩坑」。
狭い坑道を右往左往しながら、地底探検は続く。
英語ガイドに導かれ、坑道を抜けると、一気に視界が開けた。
これはなんだ!! あまりの壮麗さに息をのんだ。
聖キンガ礼拝堂だ。
地底100メートル、地底探検の最大のハイライト。
まばゆく煌くシャンデリア。もちろん岩塩でできている。
それだけではない。祭壇から壁を飾る彫刻、床のタイルまで、すべて岩塩なのだ。
ここで働いていた労働者たちが、日々の安全を願って切り開いたもの。
もちろん祭壇も彫刻も、彼らのノミから生み出された。
芸術性の高さには脱帽するしかない。
この礼拝堂、今も日曜ミサや結婚式で使われているとか。
長い地底探検も終わりに近づいた。
どうやって地上に戻るのか。あの長い急峻な階段を上らねばならないのか。
ガイドに促され坑道を進む。ガイドの優しい視線の先にエレベーターがあった。
わずか1分あまり、一気に現実世界へ引き戻された。
ポーランド旅行、残された日は実質3日。
古都クラクフに滞在しながら、いまだ世界遺産・旧市街の観光もしていない。
あすからどうしよう。、どうやってワルシャワに戻ろうか。
今夜、ビールでも飲みながら、ゆっくり考えることにしよう。
【写真1】聖キンガ礼拝堂。地底100メートルにあるとは思えない壮大さだ
【写真2】シャンデリアがきらめく壮麗な祭壇
【写真3】岩塩に刻まれた「最後の晩餐」。すばらしい、としか言いよう
【写真4】広い地底世界。レストランやコーヒールーム、トイレもある
【写真5】地上世界へ一気に引き戻してくれるエレベーター
2008年07月04日
この穴なんだ~ポーランドこぼれ話<5>
古都ルブリン旧市街。ぶらぶら散策していて、不思議なものを見つけました。
中世の面影を残す石造りの建物入り口わき、丸い穴をうがった石の板。
厚みは上部が10センチくらい、下部は25センチはありそう。
さあ、これはどんな目的に使用したものでしょうか。
こちらはホテルのドアノブにぶら下げる「睡眠中、起こさないでね」メッセージ。
ポーランド語と英語だけじゃなく、乱舞する大きなZの文字。
ZZZZZZ~は、ポーランドでも睡眠中を表すようです。
これって世界どこでも通用する記号なのかなあ。
パトカーは、ポーランドでも白黒デザイン。
これも世界共通なのかなあ?
パトカーだけは、お世話になりたくないなあ。
日本で救急車には乗ったことがあるけど…。
2008年06月29日
地底探検…ヴィエリチカ岩塩坑~ポーランド紀行<11>
「人間はどこまで無慈悲になれるのか」
アウシュビッツからの帰路、自問を続けた。
「戦争の狂気」だけに、押し付けるのは簡単だ
ヒロシマ人として、答えの見つからない重い宿題を背負わされた思いがした。
初冬の日曜日。日本を出てから、もう6日目だ。
ワルシャワ発ミラノ経由、関空へのフライトは水曜日午前10時だ。
それなのに、まだポーランド南部クラクフにいる。
残された日々は実質3日。旅のピッチを上げなければ、日本に戻れなくなってしまう。
世界遺産「ヴィエリチカ岩塩坑」はクラクフ南東約15キロのところにある。
1200年代から採掘を始めた世界屈指の地下岩塩坑だ。
地下64メートルから325メートル。迷路のように入り組んだ坑道は、総延長300キロを超える。
今は坑道の一部を観光客に開放している。

地底探検は観光客が30人くらい集まると出発する。
残念ながら、ガイドは英語、ドイツ語、フランス語のみ。なんとか英語ガイドのグループに潜り込む。
まず急な木製階段をトコトコ歩いて地下に潜って行く。
ガイドが何か言っているけど、うまく聴き取れない。


「学生時代、きちんと英語を学んでおけばよかった」と思っても、後の祭り。
100段、150段、200段…。地底をのぞくと、やわな観光客をあざ笑うように、階段は伸びている。
「降りる時はいいけど、昇る時はどうなるんだろう」。
絶望的な気持ちに鞭打ちながら、階段を降りてゆく。

10数分後、やっと終着点にたどりついた。
坑内の気温は摂氏2度だというのに、汗をびっっしょりかいていた。
ここから坑道を徒歩で進んでいく。四方八方に伸びる坑道。
ガイドなしには、二度と地上には戻れないだろう。


坑道は幅・高さとも2メートル余。壁や天井にはノミで刻んだ跡が今も鮮明だ。
壁からは鍾乳洞のように塩の結晶が露出している。
したたり落ちる水滴をなめてみた。かなり塩辛い。
でも、うまい。多彩なミネラル分を含んでいるためだろう。

天井には岩塩を刻んで作ったシャンデリアかかり、坑道をぼんやり照らしている。
坑道の壁には、聖人たちの彫像が並ぶ。
ポーランド伝説の一場面を再現した彫像もある。もちろん、すべて岩塩でできている。
採鉱者たちが自ら刻み、日々の安寧を願って祈りを捧げていたのだ。(続く)。
【写真1】削除
【写真2】地底深く続く木製の階段。はたして何段あるのか、想像もできないくらい深い
【写真3】地底で待ち受けるガイド。30人くらい集まると出発する。残念がら英語しかしゃべれない
【写真4】塩の結晶が露出している坑道。迷路のように続き、ガイドなしには二度と地上には戻れない
【写真5】坑道にかかる看板。1669の数字は、この坑道が完成した年を現している
【写真6】坑道を照らすシャンデリア。これも岩塩から、採鉱者たちが自ら刻んだ
【写真7】結晶した岩塩で製作した彫像。ガイドの説明が聞き取れず、詳しいことは不明
【写真8】「聖キンガの像」。キンガはポーランド王の娘で、ヴィエリチカ岩塩坑の発見者と言われる
アウシュビッツからの帰路、自問を続けた。
「戦争の狂気」だけに、押し付けるのは簡単だ
ヒロシマ人として、答えの見つからない重い宿題を背負わされた思いがした。
初冬の日曜日。日本を出てから、もう6日目だ。
ワルシャワ発ミラノ経由、関空へのフライトは水曜日午前10時だ。
それなのに、まだポーランド南部クラクフにいる。
残された日々は実質3日。旅のピッチを上げなければ、日本に戻れなくなってしまう。
世界遺産「ヴィエリチカ岩塩坑」はクラクフ南東約15キロのところにある。
1200年代から採掘を始めた世界屈指の地下岩塩坑だ。
地下64メートルから325メートル。迷路のように入り組んだ坑道は、総延長300キロを超える。
今は坑道の一部を観光客に開放している。
地底探検は観光客が30人くらい集まると出発する。
残念ながら、ガイドは英語、ドイツ語、フランス語のみ。なんとか英語ガイドのグループに潜り込む。
まず急な木製階段をトコトコ歩いて地下に潜って行く。
ガイドが何か言っているけど、うまく聴き取れない。
「学生時代、きちんと英語を学んでおけばよかった」と思っても、後の祭り。
100段、150段、200段…。地底をのぞくと、やわな観光客をあざ笑うように、階段は伸びている。
「降りる時はいいけど、昇る時はどうなるんだろう」。
絶望的な気持ちに鞭打ちながら、階段を降りてゆく。
10数分後、やっと終着点にたどりついた。
坑内の気温は摂氏2度だというのに、汗をびっっしょりかいていた。
ここから坑道を徒歩で進んでいく。四方八方に伸びる坑道。
ガイドなしには、二度と地上には戻れないだろう。
坑道は幅・高さとも2メートル余。壁や天井にはノミで刻んだ跡が今も鮮明だ。
壁からは鍾乳洞のように塩の結晶が露出している。
したたり落ちる水滴をなめてみた。かなり塩辛い。
でも、うまい。多彩なミネラル分を含んでいるためだろう。
天井には岩塩を刻んで作ったシャンデリアかかり、坑道をぼんやり照らしている。
坑道の壁には、聖人たちの彫像が並ぶ。
ポーランド伝説の一場面を再現した彫像もある。もちろん、すべて岩塩でできている。
採鉱者たちが自ら刻み、日々の安寧を願って祈りを捧げていたのだ。(続く)。
【写真1】削除
【写真2】地底深く続く木製の階段。はたして何段あるのか、想像もできないくらい深い
【写真3】地底で待ち受けるガイド。30人くらい集まると出発する。残念がら英語しかしゃべれない
【写真4】塩の結晶が露出している坑道。迷路のように続き、ガイドなしには二度と地上には戻れない
【写真5】坑道にかかる看板。1669の数字は、この坑道が完成した年を現している
【写真6】坑道を照らすシャンデリア。これも岩塩から、採鉱者たちが自ら刻んだ
【写真7】結晶した岩塩で製作した彫像。ガイドの説明が聞き取れず、詳しいことは不明
【写真8】「聖キンガの像」。キンガはポーランド王の娘で、ヴィエリチカ岩塩坑の発見者と言われる
2008年01月09日
愚行の証し…アウシュビッツ下~ポーランド紀行<10>
陰鬱な心を引きずりながら、第2のアウシュビッツ「ビルケナウ収容所」へ向かう。
アウシュビッツから西へ2キロ、大平原の先に「死の門」が待っていた。
「死の門」の下に1本の線路。収容所内に向かって真っすぐ伸びている。
錆びついた線路に、花束が置かれていた。
思わず手を合わせ、頭を垂れる。
このビルケナウではユダヤ人百数十万人が虐殺されたのだ。

欧州各地から貨物列車で運ばれて来たユダヤ人は、どんな思いでこの門をくぐったのだろうか。
無慈悲に「選別」され、ガス室に送られるなんて夢にも思わなかっただろう。
ユダヤ人の心情を思うと、言葉まで錆びついてしまいそうだ。
いまは「死の門」は閉鎖されている。すぐそばに見学者用のゲートがあった。
言い知れぬ苛立ちを覚えながら、収容所内に足を踏み入れた。
木造バラック群が視界に入った。窓もない粗末な建て物だ。

大げさなようだが、バラック群は水平線の彼方まで続いている、
いったい、いくつあるのだろう。
ガイドの説明によると300棟。ピーク時には9万人が収容されていた。
ビルケナウの総面積は1・4キロ(東京ドーム37個分)。アウシュビッツをはるかに上回るスケールだ。
ガス室とされる建物はナチスが撤退時に破壊したが、居住棟の一部は当時のまま保存されている。
ガイドに促され、居住棟の内部に入った。

「これは…」。言葉を失った。まるで家畜小屋だ。
床はなく、荒れた地面がむき出しだ。天井の明り取りから、辛うじて光が差し込む
とうてい人間が住めるような環境ではない。
カイコ棚のような三段ベッド。1段に数人が押し込められた。
マットはなく、ワラの上に寝かされたという。
厳寒の地。ユダヤ人はどんな思いで、寒さをこらえていたのだろうか。

ベッドのかたわらに、丸い穴が穿たれた細長いコンクリートの台があった。
高さは40~50センチくらいだろうか。
なんとなく想像はついた。これはトイレなのだ。
あまりに酷い。羞恥心という人間の尊厳まで捨てさせようとしたのだろうか。
汚水を流す溝は、三段ベッドの下に続いている。
排水もままならず、悪臭はバラック全体に立ち込めたに違いない。

第2次世界大戦からから60年余の歳月が流れた。
20世紀最大の愚行アウシュビッツとヒロシマ・ナガサキ。
21世紀の人類は、歴史の教訓に何を学ぼうとしているのか。
この時期としては珍しい青空が広がったが、、
心は晴れぬまま、収容所を後にした。
ポーランド彷徨、6日目が終わった。
【写真1】死の門。「シンドラーのリスト」などホロコーストがテーマの映画で、何度となく描かれている
【写真2】荒涼としたビルケナウ収容所に立ち並ぶ木造バラック群
【写真3】木造バラック入り口。あまりにも粗末な作りだ、隙間風は容赦なく吹き込んだだろう
【写真4】木製の三段ベッドがぎっしり並ぶ。マットレスはなく、寝藁が敷かれていた
【写真5】収容者用のトイレ。排水用の溝は掘ってあったが、ほとんど役立たなかったという
アウシュビッツから西へ2キロ、大平原の先に「死の門」が待っていた。
「死の門」の下に1本の線路。収容所内に向かって真っすぐ伸びている。
錆びついた線路に、花束が置かれていた。
思わず手を合わせ、頭を垂れる。
このビルケナウではユダヤ人百数十万人が虐殺されたのだ。
欧州各地から貨物列車で運ばれて来たユダヤ人は、どんな思いでこの門をくぐったのだろうか。
無慈悲に「選別」され、ガス室に送られるなんて夢にも思わなかっただろう。
ユダヤ人の心情を思うと、言葉まで錆びついてしまいそうだ。
いまは「死の門」は閉鎖されている。すぐそばに見学者用のゲートがあった。
言い知れぬ苛立ちを覚えながら、収容所内に足を踏み入れた。
木造バラック群が視界に入った。窓もない粗末な建て物だ。
大げさなようだが、バラック群は水平線の彼方まで続いている、
いったい、いくつあるのだろう。
ガイドの説明によると300棟。ピーク時には9万人が収容されていた。
ビルケナウの総面積は1・4キロ(東京ドーム37個分)。アウシュビッツをはるかに上回るスケールだ。
ガス室とされる建物はナチスが撤退時に破壊したが、居住棟の一部は当時のまま保存されている。
ガイドに促され、居住棟の内部に入った。
「これは…」。言葉を失った。まるで家畜小屋だ。
床はなく、荒れた地面がむき出しだ。天井の明り取りから、辛うじて光が差し込む
とうてい人間が住めるような環境ではない。
カイコ棚のような三段ベッド。1段に数人が押し込められた。
マットはなく、ワラの上に寝かされたという。
厳寒の地。ユダヤ人はどんな思いで、寒さをこらえていたのだろうか。
ベッドのかたわらに、丸い穴が穿たれた細長いコンクリートの台があった。
高さは40~50センチくらいだろうか。
なんとなく想像はついた。これはトイレなのだ。
あまりに酷い。羞恥心という人間の尊厳まで捨てさせようとしたのだろうか。
汚水を流す溝は、三段ベッドの下に続いている。
排水もままならず、悪臭はバラック全体に立ち込めたに違いない。
第2次世界大戦からから60年余の歳月が流れた。
20世紀最大の愚行アウシュビッツとヒロシマ・ナガサキ。
21世紀の人類は、歴史の教訓に何を学ぼうとしているのか。
この時期としては珍しい青空が広がったが、、
心は晴れぬまま、収容所を後にした。
ポーランド彷徨、6日目が終わった。
【写真1】死の門。「シンドラーのリスト」などホロコーストがテーマの映画で、何度となく描かれている
【写真2】荒涼としたビルケナウ収容所に立ち並ぶ木造バラック群
【写真3】木造バラック入り口。あまりにも粗末な作りだ、隙間風は容赦なく吹き込んだだろう
【写真4】木製の三段ベッドがぎっしり並ぶ。マットレスはなく、寝藁が敷かれていた
【写真5】収容者用のトイレ。排水用の溝は掘ってあったが、ほとんど役立たなかったという
2007年12月25日
不思議な交通標識~ポーランドこぼれ話<4>
交通標識って世界共通? そんなことはないんです。
ポーランドでは不思議な交通標識に出会いました。
いくつか紹介します。

まずはこれ。ワルシャワの下町で発見。
赤いバックに白い横線。これは日本でもおなじみ「進入禁止」ですね。
でも、その下の自転車と人が乗った自転車の標識はどんな意味なのでしょうか。

もっと不思議な標識はこれ。手に何かを持った女の子が描かれています。
上側の青い標識は、もちろん横断歩道の標識です。郊外の国道沿いで何度も目撃しました。
手に持ってるものは何? で、この女の子はどうすればいいんでしょうか。

日本の信号は、青→黄→赤→青と順に点灯しますよね。
ポーランドでは、赤と黄色が同時に点灯します。
ここでクイズです。
このあと点灯する信号の色はなんでしょう。
(1)青(2)黄色(3)赤(4)青&黄色(5)その他。
正解者には「1級信号士」の称号を贈り、栄誉を称えます。
☆ ☆ ☆ ☆
T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク!!
ポーランドでは不思議な交通標識に出会いました。
いくつか紹介します。
まずはこれ。ワルシャワの下町で発見。
赤いバックに白い横線。これは日本でもおなじみ「進入禁止」ですね。
でも、その下の自転車と人が乗った自転車の標識はどんな意味なのでしょうか。
もっと不思議な標識はこれ。手に何かを持った女の子が描かれています。
上側の青い標識は、もちろん横断歩道の標識です。郊外の国道沿いで何度も目撃しました。
手に持ってるものは何? で、この女の子はどうすればいいんでしょうか。
日本の信号は、青→黄→赤→青と順に点灯しますよね。
ポーランドでは、赤と黄色が同時に点灯します。
ここでクイズです。
このあと点灯する信号の色はなんでしょう。
(1)青(2)黄色(3)赤(4)青&黄色(5)その他。
正解者には「1級信号士」の称号を贈り、栄誉を称えます。
☆ ☆ ☆ ☆
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2007年12月18日
愚行の証し…アウシュビッツ中~ポーランド紀行<9>
アウシュビッツ強制収容所。荒涼たる大平原にレンガ造りの建物が整然と並ぶ。
その数28棟。最大1万8000人が収容されていた。
ユダヤ人たちは次々とガス室に送られ、わずか3年間で140万人が虐殺されたとされる。
早暁は霧の海に沈んでいたアウシュビッツ。
午前11時過ぎ、陰鬱な施設には不似合いなほどの青空が広がった。
「死のブロック」と収容者に恐れられた11号棟は、一番奥まったエリアにあった。



臨時裁判所、監禁室、鞭打ち台、飢餓室、身動きすらできない立ち牢…。
裁判とは名ばかり。ナチス親衛隊は、拷問で虚偽の自白を引き出し、銃殺や絞首刑に処したのだ。
それも白日の下、公開で。
集団絞首台も銃殺に使われた死の壁も、居住棟のすぐそばにあった。
処刑の模様を収容者に見せ、恐怖心を植え付けるためだろう。
現場に立つと、処刑されたユダヤ人のうめき声が聞こえてきそうな錯覚に陥る。

ユダヤ人の慰霊と世界平和を祈って、広島から持参した折り鶴を捧げた。
ヒロシマに生を受けたものとして、アウシュビッツの悪夢は他人事ではありえない。
国際政治の現実からは、無意味な行動かもしれない。でも、行動せずにはおれないのだ。
ポーランド人ガイドは、もちろん流暢な英語をしゃべる。
こちらの英語力に問題があり、すべては聞き取れない。
もどかしさが募る。英語力の重要さを改めて実感した。


毒ガス室と死体焼却室は有刺鉄線の外、収容棟からは死角の位置にあった。
集団殺戮だけは、収容者に知られたくはなかったのだろう。
冷え冷えとしたコンクリートの部屋。天井の毒ガス噴出口に不気味さが募った。
ユダヤ人たちはシャワーを浴びるからと全裸にさせられ、この部屋に入れられた。
入口のドアが閉まると同時に、毒ガス・チクロンBが噴き出したのだ。
人間はどこまで残酷になれるのだろうか。そう自問しながらアウシュビッツ第2収容所に向かった。
【写真1、2】居住棟に挟まれた死の壁。ユダヤ人たちはどんな思いで、処刑を目にしたのだろうか
【写真3】集団絞首台。後方の建物はナチス親衛隊詰め所。反対側に収容棟が並んでいる
【写真4、5】広島から持参した折り鶴、メッセージをそえて、犠牲者にささげた
【写真6】半地下式の毒ガス室。内部も当時の姿のまま保存されている。ただし写真撮影は禁止だ
【写真7】毒ガス室そばにあった絞首台。こちらは戦後、ナチス親衛隊員が処刑された
<アウシュビッツ見学について>入場無料。英語ガイドツアーがほぼ1時間おきにあり、1人26ズロチ(約1200円)。クラクフからアウシュビッツまでは列車、バス、タクシー。タクシーが便利で速い。往復で約330ズロチ(1万4000円)。
★ ★ ★ ★
T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク!!
その数28棟。最大1万8000人が収容されていた。
ユダヤ人たちは次々とガス室に送られ、わずか3年間で140万人が虐殺されたとされる。
早暁は霧の海に沈んでいたアウシュビッツ。
午前11時過ぎ、陰鬱な施設には不似合いなほどの青空が広がった。
「死のブロック」と収容者に恐れられた11号棟は、一番奥まったエリアにあった。
臨時裁判所、監禁室、鞭打ち台、飢餓室、身動きすらできない立ち牢…。
裁判とは名ばかり。ナチス親衛隊は、拷問で虚偽の自白を引き出し、銃殺や絞首刑に処したのだ。
それも白日の下、公開で。
集団絞首台も銃殺に使われた死の壁も、居住棟のすぐそばにあった。
処刑の模様を収容者に見せ、恐怖心を植え付けるためだろう。
現場に立つと、処刑されたユダヤ人のうめき声が聞こえてきそうな錯覚に陥る。
ユダヤ人の慰霊と世界平和を祈って、広島から持参した折り鶴を捧げた。
ヒロシマに生を受けたものとして、アウシュビッツの悪夢は他人事ではありえない。
国際政治の現実からは、無意味な行動かもしれない。でも、行動せずにはおれないのだ。
ポーランド人ガイドは、もちろん流暢な英語をしゃべる。
こちらの英語力に問題があり、すべては聞き取れない。
もどかしさが募る。英語力の重要さを改めて実感した。
毒ガス室と死体焼却室は有刺鉄線の外、収容棟からは死角の位置にあった。
集団殺戮だけは、収容者に知られたくはなかったのだろう。
冷え冷えとしたコンクリートの部屋。天井の毒ガス噴出口に不気味さが募った。
ユダヤ人たちはシャワーを浴びるからと全裸にさせられ、この部屋に入れられた。
入口のドアが閉まると同時に、毒ガス・チクロンBが噴き出したのだ。
人間はどこまで残酷になれるのだろうか。そう自問しながらアウシュビッツ第2収容所に向かった。
【写真1、2】居住棟に挟まれた死の壁。ユダヤ人たちはどんな思いで、処刑を目にしたのだろうか
【写真3】集団絞首台。後方の建物はナチス親衛隊詰め所。反対側に収容棟が並んでいる
【写真4、5】広島から持参した折り鶴、メッセージをそえて、犠牲者にささげた
【写真6】半地下式の毒ガス室。内部も当時の姿のまま保存されている。ただし写真撮影は禁止だ
【写真7】毒ガス室そばにあった絞首台。こちらは戦後、ナチス親衛隊員が処刑された
<アウシュビッツ見学について>入場無料。英語ガイドツアーがほぼ1時間おきにあり、1人26ズロチ(約1200円)。クラクフからアウシュビッツまでは列車、バス、タクシー。タクシーが便利で速い。往復で約330ズロチ(1万4000円)。
★ ★ ★ ★
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2007年12月11日
愚行の証し…アウシュビッツ上~ポーランド紀行<8>
アウシュビッツへの道のりは遠かった。
ルブリンに寄り道したこともあり、2日遅れで古都クラクフに到着した。
世界遺産アウシュビッツは、クラクフ西30キロのオシフィエンチム市にある。
金曜日午前10時、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所は霧に覆われていた。
重い灰色の空、冷たい風が肌を差す。
荒涼たる大平原にレンガ造りの建物群が広がっている。

収容所ゲート、アーチ状にスローガンが書かれている。
「ARBEIT MACHT FREI」。ドイツ語で、「働けば自由になる」という意味だ。
しかし、ユダヤ人は自由になるどころが、ガス室に送られたのだ。
左から3文字目、「B」の形が変だと思いませんか。
Bの二つの膨らみ、普通は下側が大きいのに、これは上側が異様に膨らんでいる。
この看板を制作させらたユダヤ人が、自らの運命を悟り抵抗の意味合い込めたと言われている。


アウシュビッツ収容所は、ほぼ当時の姿をとどめている。
二重に張り巡らされた有刺鉄線。かつては高圧電流が流されていた。
その間には地雷原。どくろマークに不気味さが募る。
極寒の地、暖房もほとんどない収容者の住居。
木製の3段ベッドが並ぶ。50人用の部屋に200人近くが押し込められた。
人間らしい生活が送れるはずもない。


収容者住居の一部は、資料展示館として使われている。
広いフロア一杯、山のように積み上げられた毛髪。その不気味さに、声をうしなう。
トランク、めがね、義足…膨大な遺品の数が、犠牲者の多さを物語る証しだ。
虐殺に使われた毒ガスがチクロンB。
その空き缶が積み上げられた部屋もある。
建物内部は写真撮影禁止なので、その異様さをお伝えできないのは残念だ。

20世紀人類の愚行の象徴アウシュビッツ。
ようやく霧は晴れ、青い空ものぞいた。
しかし心は陰鬱なまま、さらに収容所内をめぐった。(続く)
【写真1】アウシュビッツ収容所ゲート。「働けば自由になる」のスローガンが寒々しい
【写真2、3】収容所に張り巡らされた有刺鉄線。地雷原を示すどくろマークもおどろおどろしい
【写真4、5】ユダヤ人居住棟。レンガ造り2階建て。ほどんど暖房もない劣悪な居住環境だった
【写真6】見張り塔。重武装の兵士が24時間、監視の目を光らせていた
<アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所>第二次世界大戦中の1942年、ナチス・ドイツがユダヤ人を絶滅させるため、ポーランド・オシフィエンチム市に建設。広さ170ヘクタール。収容所の中まで線路が引き込まれ、ヨーロッパ中からユダヤ人が貨物列車で運ばれてきた。1945年までに140万人がガス室に送られ、殺害されたとされる。ユネスコは1979年、「負の世界遺産」に認定した。
★ ★ ★ ★
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ルブリンに寄り道したこともあり、2日遅れで古都クラクフに到着した。
世界遺産アウシュビッツは、クラクフ西30キロのオシフィエンチム市にある。
金曜日午前10時、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所は霧に覆われていた。
重い灰色の空、冷たい風が肌を差す。
荒涼たる大平原にレンガ造りの建物群が広がっている。
収容所ゲート、アーチ状にスローガンが書かれている。
「ARBEIT MACHT FREI」。ドイツ語で、「働けば自由になる」という意味だ。
しかし、ユダヤ人は自由になるどころが、ガス室に送られたのだ。
左から3文字目、「B」の形が変だと思いませんか。
Bの二つの膨らみ、普通は下側が大きいのに、これは上側が異様に膨らんでいる。
この看板を制作させらたユダヤ人が、自らの運命を悟り抵抗の意味合い込めたと言われている。
アウシュビッツ収容所は、ほぼ当時の姿をとどめている。
二重に張り巡らされた有刺鉄線。かつては高圧電流が流されていた。
その間には地雷原。どくろマークに不気味さが募る。
極寒の地、暖房もほとんどない収容者の住居。
木製の3段ベッドが並ぶ。50人用の部屋に200人近くが押し込められた。
人間らしい生活が送れるはずもない。
収容者住居の一部は、資料展示館として使われている。
広いフロア一杯、山のように積み上げられた毛髪。その不気味さに、声をうしなう。
トランク、めがね、義足…膨大な遺品の数が、犠牲者の多さを物語る証しだ。
虐殺に使われた毒ガスがチクロンB。
その空き缶が積み上げられた部屋もある。
建物内部は写真撮影禁止なので、その異様さをお伝えできないのは残念だ。
20世紀人類の愚行の象徴アウシュビッツ。
ようやく霧は晴れ、青い空ものぞいた。
しかし心は陰鬱なまま、さらに収容所内をめぐった。(続く)
【写真1】アウシュビッツ収容所ゲート。「働けば自由になる」のスローガンが寒々しい
【写真2、3】収容所に張り巡らされた有刺鉄線。地雷原を示すどくろマークもおどろおどろしい
【写真4、5】ユダヤ人居住棟。レンガ造り2階建て。ほどんど暖房もない劣悪な居住環境だった
【写真6】見張り塔。重武装の兵士が24時間、監視の目を光らせていた
<アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所>第二次世界大戦中の1942年、ナチス・ドイツがユダヤ人を絶滅させるため、ポーランド・オシフィエンチム市に建設。広さ170ヘクタール。収容所の中まで線路が引き込まれ、ヨーロッパ中からユダヤ人が貨物列車で運ばれてきた。1945年までに140万人がガス室に送られ、殺害されたとされる。ユネスコは1979年、「負の世界遺産」に認定した。
★ ★ ★ ★
T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク!!
2007年12月01日
トイレ事情~ポーランドこぼれ話<3>
ワルシャワ初日、ランチタイムにビールを2杯飲んだ。
ビールは安くてうまい。上機嫌で勘定をすませ、再び街歩きへ。
約1時間後、想定外の事態が発生した。
猛烈な尿意が襲ってきたのだ。
寒いから汗はかかない。取り込んだ水分は、すべて体外に排出せざるを得ない。
寒風吹きすさぶ旧市街を、うろうろきょろきょろ。でも、公衆トイレはどこにもない。

切羽詰まって、道行くおじさんに尋ねた。
恥ずかしくて、お嬢さんには聞けない。
「この辺に公衆トイレはないよ」。哀れむようなまなざしを向ける。
電線もない。けばい看板もない。
歴史的な街並みに、確かに公衆トイレは不似合い。
そんなことより、目前に迫った危機をいかに回避するのかだ。

石畳の道を曲がると、そこに1軒のカフェ。
寒さを防ぐためだろう、入り口のドアは閉まっているが、営業はしているようだ。
あわただしくドアをあけ、カウンターの向こうにいるおじさんに「コーヒー二つ」。
間髪いれず「トイレはどこ?」。
おじさんが指差した先にトイレはあった。
ところが、二つあるドアのマークを見て、思わず「こりゃなんじゃ」。


ドアの一つには▽、もう一つのドアには○と▽ト車椅子マーク。
こんなマークは初めて見た。どっちが男子トイレなんじゃ。
ある推理を働かせドアを開けると、そこはまさしく男子トイレだった。
長い長いトイレ彷徨の旅は、これにて大団円。
くさい話にお付き合いくださり、ありがとうございました
みなさん、どっちが男子トイレか分かりますか。名推理をお待ちしています。

ヨーロッパのトイレ事情はどこもはかばかしくない。
ポーランド各都市の旧市街も例外ではない。
公衆トイレはほとんどない。
トイレがあるのはレストランやカフェ、博物館くらいだ。
飲みたくもないコーヒーを注文するか、見たくもない博物館にお金を払って入場するしかない。
運良く公衆トイレはあっても、1~3ズロチ(45~135円)のチップがいるのだ。
【写真1】ワルシャワの下町。歴史的な街並みにトイレは不似合いではあるが…
【写真2】寒いからだろうドアを閉ざしたカフェ。でも、営業はしていた
【写真3、4】トイレのドアに不思議なマーク。初めてお目にかかった
【写真5】よく探せば公衆トイレもないことはない。チップが必要ではあるが…
★ ★ ★ ★
T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク!!
ビールは安くてうまい。上機嫌で勘定をすませ、再び街歩きへ。
約1時間後、想定外の事態が発生した。
猛烈な尿意が襲ってきたのだ。
寒いから汗はかかない。取り込んだ水分は、すべて体外に排出せざるを得ない。
寒風吹きすさぶ旧市街を、うろうろきょろきょろ。でも、公衆トイレはどこにもない。
切羽詰まって、道行くおじさんに尋ねた。
恥ずかしくて、お嬢さんには聞けない。
「この辺に公衆トイレはないよ」。哀れむようなまなざしを向ける。
電線もない。けばい看板もない。
歴史的な街並みに、確かに公衆トイレは不似合い。
そんなことより、目前に迫った危機をいかに回避するのかだ。
石畳の道を曲がると、そこに1軒のカフェ。
寒さを防ぐためだろう、入り口のドアは閉まっているが、営業はしているようだ。
あわただしくドアをあけ、カウンターの向こうにいるおじさんに「コーヒー二つ」。
間髪いれず「トイレはどこ?」。
おじさんが指差した先にトイレはあった。
ところが、二つあるドアのマークを見て、思わず「こりゃなんじゃ」。
ドアの一つには▽、もう一つのドアには○と▽ト車椅子マーク。
こんなマークは初めて見た。どっちが男子トイレなんじゃ。
ある推理を働かせドアを開けると、そこはまさしく男子トイレだった。
長い長いトイレ彷徨の旅は、これにて大団円。
くさい話にお付き合いくださり、ありがとうございました
みなさん、どっちが男子トイレか分かりますか。名推理をお待ちしています。
ヨーロッパのトイレ事情はどこもはかばかしくない。
ポーランド各都市の旧市街も例外ではない。
公衆トイレはほとんどない。
トイレがあるのはレストランやカフェ、博物館くらいだ。
飲みたくもないコーヒーを注文するか、見たくもない博物館にお金を払って入場するしかない。
運良く公衆トイレはあっても、1~3ズロチ(45~135円)のチップがいるのだ。
【写真1】ワルシャワの下町。歴史的な街並みにトイレは不似合いではあるが…
【写真2】寒いからだろうドアを閉ざしたカフェ。でも、営業はしていた
【写真3、4】トイレのドアに不思議なマーク。初めてお目にかかった
【写真5】よく探せば公衆トイレもないことはない。チップが必要ではあるが…
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T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク!!
2007年11月29日
ルブリン探索~ポーランド紀行<7>
ルブリン旧市街探索、クラクフ門から始めよう。
クラクフ門は重厚なバロック様式、往時の繁栄ぶりをうかがわせる。
ポーランド王の居城があった古都クラクフは南西200キロ先、だからクラクフ門なのだ。


新市街側から門をくぐり、旧市街に足を踏み入れる。
こぎれいとは言えないが、歴史を感じさせる街並みが続く。
建物の一つ一つには、今もルブリン市民の暮らしがある。
少し勾配がある石畳の道、ぶらぶらと歩く。
珍しく青空がのぞき、初冬の柔らかな日差しも注ぐ。
デイバッグにくくりつけているデジタル温度計は「14」を表示した。こんな日和は初めてだ。


旧市庁舎、新市庁舎、大聖堂、ドミニカン修道院…重厚な歴史遺産。
15~16世紀へタイムスリップしたような不思議な感覚にとらわれる。
甲冑に身を固めた騎士が飛び出してきても、違和感は全く感じないだろう。
遠目には瀟洒な建物群だが、目をこらすと痛みが進んでいる。
あちこちで修復に取り組んではいる。でも、すべて手作業。遅々として進まない。
歴史遺産を守り継ぐことの重みを、あらためて実感した。

石畳の道、歩き続けると膝にくる。
午後4時過ぎ、日は陰り、風も冷たさを増してきた。
そろそろホテルへチェックインしよう。
今夜の宿は旧市街そばの「グランドホテル」だ。
ルネサンス様式の柱列が、伝統と格式を物語る。
吹き抜けのロビー。豪華な調度品。ちょっぴり足がすくんだ。これでも五つ星じゃないとは驚きだ。


ゆったりしたベッド、真っ白い清潔なシート。
バスルームも広いし、バスタブもでかい。
勢いよく出てくるお湯に気分も安らぐ。
風呂あがり、ミニバーをのぞくとビールがあった。
中瓶クラス、2本ともラベルがかわいい。
価格表を見ると1本6ズロチ(270円)。

スーパー価格の2~3倍だが、ホテル価格としては安い。
もちろん、栓抜きもある。旅の平穏を祈って、同行者と乾杯する。
いよいよ明日、アウシュビッツ見学の拠点となるクラクフへ向かうのだ。
いくぶん高揚しながらも、電気を消すとすぐに眠りに落ちた。
うまい地ビールをたっぷり飲んだせいだけでもないだろう。
はるかな旅路、ようやく半ばを過ぎた。
【写真1、2】ルブリン旧市街の入口クラクフ門。新市街側(左)と旧市街側
【写真3】ルブリン大聖堂。ファサード最上部の浮き彫りが美しい
【写真4】市役所新庁舎。新庁舎といえども、バロック調の建築が印象的
【写真5】旧市街民家の浮き彫りの修復作業。熟練の技が求められる
【写真6】ルブリン「グランドホテル」。これでも4つ星クラスだ
【写真7】ミニバーに置かれていたビール。いずれもさわやかな飲み口だった
【写真8】広いベッドと清潔なシーツ。これなら熟睡できそう
★ ★ ★ ★
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クラクフ門は重厚なバロック様式、往時の繁栄ぶりをうかがわせる。
ポーランド王の居城があった古都クラクフは南西200キロ先、だからクラクフ門なのだ。
新市街側から門をくぐり、旧市街に足を踏み入れる。
こぎれいとは言えないが、歴史を感じさせる街並みが続く。
建物の一つ一つには、今もルブリン市民の暮らしがある。
少し勾配がある石畳の道、ぶらぶらと歩く。
珍しく青空がのぞき、初冬の柔らかな日差しも注ぐ。
デイバッグにくくりつけているデジタル温度計は「14」を表示した。こんな日和は初めてだ。
旧市庁舎、新市庁舎、大聖堂、ドミニカン修道院…重厚な歴史遺産。
15~16世紀へタイムスリップしたような不思議な感覚にとらわれる。
甲冑に身を固めた騎士が飛び出してきても、違和感は全く感じないだろう。
遠目には瀟洒な建物群だが、目をこらすと痛みが進んでいる。
あちこちで修復に取り組んではいる。でも、すべて手作業。遅々として進まない。
歴史遺産を守り継ぐことの重みを、あらためて実感した。
石畳の道、歩き続けると膝にくる。
午後4時過ぎ、日は陰り、風も冷たさを増してきた。
そろそろホテルへチェックインしよう。
今夜の宿は旧市街そばの「グランドホテル」だ。
ルネサンス様式の柱列が、伝統と格式を物語る。
吹き抜けのロビー。豪華な調度品。ちょっぴり足がすくんだ。これでも五つ星じゃないとは驚きだ。
ゆったりしたベッド、真っ白い清潔なシート。
バスルームも広いし、バスタブもでかい。
勢いよく出てくるお湯に気分も安らぐ。
風呂あがり、ミニバーをのぞくとビールがあった。
中瓶クラス、2本ともラベルがかわいい。
価格表を見ると1本6ズロチ(270円)。
スーパー価格の2~3倍だが、ホテル価格としては安い。
もちろん、栓抜きもある。旅の平穏を祈って、同行者と乾杯する。
いよいよ明日、アウシュビッツ見学の拠点となるクラクフへ向かうのだ。
いくぶん高揚しながらも、電気を消すとすぐに眠りに落ちた。
うまい地ビールをたっぷり飲んだせいだけでもないだろう。
はるかな旅路、ようやく半ばを過ぎた。
【写真1、2】ルブリン旧市街の入口クラクフ門。新市街側(左)と旧市街側
【写真3】ルブリン大聖堂。ファサード最上部の浮き彫りが美しい
【写真4】市役所新庁舎。新庁舎といえども、バロック調の建築が印象的
【写真5】旧市街民家の浮き彫りの修復作業。熟練の技が求められる
【写真6】ルブリン「グランドホテル」。これでも4つ星クラスだ
【写真7】ミニバーに置かれていたビール。いずれもさわやかな飲み口だった
【写真8】広いベッドと清潔なシーツ。これなら熟睡できそう
★ ★ ★ ★
T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク!!
2007年11月26日
いざ古都ルブリンへ~ポーランド紀行<6>
ワルシャワからアウシュビッツに直行するはずが…。
ガイド氏の「ルブリンはいい街だよ」の誘いに乗って、なんとなく予定変更。
木曜日の朝、ルブリンヘ旅立った。
ひろしまPステーションでのアウシュビッツ生レポートは、
ポーランド時間の金曜日午前7時過ぎ(日本時間午後2時過ぎ)。
どうあがいても、もう間に合わない。パーソナリティーのOさん、ご免なさい。
ルブリンは1000年余りの歴史を持つ古都だ。
バルト海と黒海とを結ぶ交易路上にあり、ロシアやスカンジナビア諸国との交易で栄えた。
ワルシャワから南南東へ150キロ、長距離バスでほぼ3時間の道のりだ。
ポーランド4日目。やっと太陽が顔をのぞかせ、青い空も姿を見せた。
正午過ぎ気温は10度を超えた。風が無いのでそれほど寒くは感じない。
バスを降りると、なだらかな丘の上に白亜のルブリン城が姿を現した。
城壁に添って無粋な足場が組み立てられている。景観は台無しだ。修復中で城内には入れない。
まあ、そんなことで怒っていたら海外旅行なんて楽しめない。
なだらかな石畳の道を下って旧市街へ。とりあえずランチにしよう。
ゴシック調のファサードが歴史の重みを感じさせるレストラン。
まずはビールで一人乾杯。さわやかな飲み口だ。グラスの文字から判断して、初めて飲む銘柄だ。
お代わりしたかったが、不便なトイレ事情を考えて断念した。
キノコのスープ。濃厚なキノコの香りが立ち上る。豊潤な秋の大地の恵みだ。
メーンは牛肉のロール煮込み。ポーランドを代表する肉料理だ。
ピクルス、ハム、長ねぎが巻き込んである。ソースはトマト味。これは旨い。
でも、でかい、でかすぎる。とても2本は食べきれない。
2人で一皿で十分だった。デザートを頼まなくてよかった。
ランチを終え、いざ旧市街へ。1000年の歴史探訪スタートだ。
【写真1】白亜のルブリン城。ポーランド入国5日目で初めて青い空も広がった
【写真2】ルブリン城から望む旧市街。1000年の歴史を感じさせる建物が連なる
【写真3】民族料理レストラン。入り口の甲冑姿の兵士の像が手招きしていた
【写真4】ルブリンの地ビールなのか。言葉が分からないので確かめられなかった
【写真5】キノコのスープ。たぶん5種類くらいのキノコが…。これはうまかった
【写真6】メーンの牛肉のロール煮込み。あまりにもでかくて食べ切れなかった
★ ★ ★
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2007年11月22日
ビール天国~ポーランドこぼれ話<2>
ポーランドはビールが安い。
のどが渇いたらビールごくごく。
これぞ旅の醍醐味だなあ。
ワルシャワ繁華街のスーパー。
うれしいことに午後11時まで営業している。
ドリンクコーナーにはビールがズラリと並んでいる。
もう数え切れないくらいの、多彩なラベル。
びんビールだけじゃなく、缶ビールも山のように積み上げられている。
いわゆる中びんで2ズロチ~3ズロチくらい(1ズロチは45円くらい)。
もちろん発泡酒じゃあありません。
どっさり買い込んで、ホテルの冷蔵庫で冷やして置く。
いつでも飲めて、安上がり。賢い旅人だなあ。
ミネラルウォーターは500CCサイズで2ズロチ。
ありゃあ、ビールより高いじゃん。
コーラはもっと高いぞ。コーラあかん。
レストランだと中ジョッキで4~5ズロチ(180~225円)。
まあ、サービスつきだからこんなものか。
おいしい料理においしいビール。またまた乾杯!!
【写真1】繁華街の大型スーパードのドリンクコーナー。多種多様なビールが並んでいる
【写真2】ビールは安い。中びんは2~3ズロチ。でも、栓抜きがないので缶ビールにする
【写真3】この缶ビールは2ズロチだった。ポーランド語が読めないので詳しいことは分からない
【写真4】ミネラルウォーターは割り高だ。水を飲むより、ビールを飲めということか
【写真5】レストランのグラスビール。1杯4ズロチ。ライトな味わいで飲みやすい
【写真6】ポーランドはEUに加盟したが、通貨はユーロじゃなく、いまだにズロチだ
★ ★ ★
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2007年11月20日
悪魔のささやき~ポーランド紀行<5>
日本を出発したのは日曜日、もう水曜日だ。でも、まだワルシャワにいる。
これはヤバイぞ。今回の旅、最大の目的はアウシュビッツ訪問だ。
ヒロシマ・ナガサキと並ぶ、20世紀人類の愚行の象徴がアウシュビッツなのだ。
ひろしまPステーションで、アウシュビッツ報告をする約束になっている。
オンエアは日本時間金曜日午後2時過ぎ(こちらは金曜日午前7時)。
残された時間は、水・木の2日間しかない。
でも、まだワルシャワにいたい。
ポーランドが生んだ偉大な音楽家ショパンの生家も訪ねてみたい。
まあ、いいか。♪ケセラセラ~なるようになるさ~。
陰鬱な曇り空がワルシャワの街を覆っている。
これが冬のヨーロッパなのか。心まで沈んでしまいそうだ。
ショパンの生家はワルシャワから西へ50キロの寒村ジェラゾヴァ・ヴォラにある。
ほとんどカーブのない2車線の道を車はひた走る。
EC(欧州共同体)の規制で、日中でもヘッドランプを点灯している。
うねるように大平原が続く。収穫を終えたのか、作物はほとんど植わっていない。
1時間あまりで、ショパン生家に到着した。広い、広すぎる。
門から玄関まで100メートルはありそう。19世紀の領主、優雅な暮らしぶりが伺える。
生家はショパン博物館として保存されている。白亜ではあるが、豪邸ではない。
暖房は暖炉だけ。真冬は寒かっただろうなあ。
愛用のピアノ、出生証明書、自筆の楽譜…音楽家には垂涎のお宝が保存・展示されている。
撮影禁止なのが残念だ。日曜日には若手ピアニストの無料演奏会が開かれているとか。
ワルシャワに戻り、ショパン公園にも足を伸ばす。
気候のいい春から秋は、ワルシャワっ子の憩いの場所だ。
黄葉が美しいイチョウ並木。落葉を踏みしめ散策する。寒い、風が頬をさす。太陽が恋しいぞ。
ふと木陰に目をやると、ベンチに若いカップルがいた。
寒さのせいだけではないだろう。ぴったり寄り添っている。うらやましいなあ。
わが過ぎ去りし青春の日々は、はるか記憶の彼方。
いよいよ、あす木曜日はアウシュビッツへ。ところがガイドから悪魔のささやきが…。
「ルブリンに寄ったらどうだい。いい街だよ」。さあ、どうしよう。
パーソナリティーの顔が一瞬浮かんだが、悪魔に身を売ることに決めてしまった。
ここで、おまけのクイズです。
ショパン公園のショパン像、なんだかグロテスクな飾りがありますよね。
さて、これはなんでしょう。日本でもおなじみの植物です。
【写真1】窓にゴシックの浮き彫りをほどこしたアパート。ワルシャワの下町で発見
【写真2】ショパン生家へ続く道。生理的現象で一休み。珍しく青空が広がっていた
【写真3】広い庭園にポツンとたたずむショパンの生家。19世紀のまま保存されている
【写真4】ショパンとはこんな人。なんだか気難しそうだなあ
【写真5】ガソリンスタンドで燃料を入れてる間に、こちらは余分なものを排出
【写真6】ワルシャワ市内のショパン公園。さすがに人影はない、と思ったら…
【写真7】人目につきにくいベンチで若いカップルが…。愛は寒さに勝つ、のだろうか
☆ ☆ ☆ ☆
※T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク!!
2007年11月18日
ワルシャワぶらぶら~ポーランド紀行<4>
ワルシャワ2日目、ぶらりぶらりと下町観光。
寒い、あまりに寒い。タートルネックセーターにダウンジャケット。
それでも寒さは骨身にこたえる。同行者は携帯用カイロ3個をお腹に巻いた。
やはり冬のポーランド観光なんて、無謀な試みだったのか。
ポーランドとは、平らな(ポー)土地(ランド)という意味だ。
その名の通り国土の80%余りが平原だ。冬の強風は平原を一気に吹き抜ける。
さえぎるものがない大平原。
戦時には戦車が一気に駆け抜けた。
それがポーランドの悲劇の一因でもある。

午前10時を過ぎても気温は上がらない。
太陽は、厚いグレーの雲の向こうにかくれんぼ。
まずは世界遺産旧市街広場近くの青空マーケットへ。
買い出しのワルシャワっ子は厚手のコート、毛糸の帽子と完全武装。
売り子のおねえさん、おじちゃんたちの顔もこわばっている。
買い物を済ませると、みんな足早に去っていく。

でも子どもは風の子、元気いっぱい。
校外学習なのだろうか、旧市街広場の近くで20人くらいの集団と出会った。
仲良く手をつないでいる。カメラを向けると笑顔が広がった。
まるで西洋人形、とてもかわいい。スーツケースに一人入れて帰りたいくらいだ。
「チャイニーズ?」。先頭の女の子から尋ねられた。
「ノーノー、ジャパニーズ」。分かってくれたのだろう、大きくうなずいた。


石畳の道、風情はあるが歩きづらい。
街角のカフェで一休み。この寒さ、オープンカフェは営業休止。
言葉は通じないが、なんとかケーキセットを注文した。
かなり甘いケーキ、ボリュームもすごい。一人では食べきれない。二つ頼まなくてよかった。
コーヒー二つと合わせ19ズロチ(855円=1ズロチ45円)。
1ズロチをチップとしてテーブルに残した。

落書きは洋の東西を問わないのか。
ワルシャワ芸術大学の壁にも一面の落書き。
世界遺産指定エリア外なのがせめてもの救いか。
午後2時になったが、太陽は姿を見せない。
甘いケーキを食べたせいか、お腹もすかない。
1944年のワルシャワ蜂起の記念碑へ足を伸ばした。

ワルシャワ市民18万人~25万人が犠牲になったワルシャワ蜂起。
ナチスに追われて市民たちは、地下水道にもぐって抵抗を続けた。
アンジェイ・ワイダ監督「地下水道」は、この悲惨な戦いを描いている。
記念碑の戦士が見つめる先に、「地下水道」入り口が保存されている。
何の変哲もない四角い穴。花束が添えられてなければ、見過ごしてしまいそう。
「地下水道」のモノクロのシーンがフラッシュバックした。

【写真1】青空マーケットじゃなく灰空マーケット。買い物を済ませた人たちは足早に去っていく
【写真2】子どもたちは元気いっぱい。笑顔がかわいい。まるでお人形さんだ
【写真3】あまりの寒さにオープンカフェはテントを畳んで店じまい
【写真4】カフェのケーキセット。安くてボリュームたっぷり
【写真5】ワルシャワ芸術大学壁面の落書き。心ない奴はどこにもいるんだ
【写真6】ワルシャワ蜂起記念碑。まさに地下水道に潜ろうとしているところ
【写真7】写真右側、歩道のビル沿い花が飾られているところが地下水道入口
※T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク!!
寒い、あまりに寒い。タートルネックセーターにダウンジャケット。
それでも寒さは骨身にこたえる。同行者は携帯用カイロ3個をお腹に巻いた。
やはり冬のポーランド観光なんて、無謀な試みだったのか。
ポーランドとは、平らな(ポー)土地(ランド)という意味だ。
その名の通り国土の80%余りが平原だ。冬の強風は平原を一気に吹き抜ける。
さえぎるものがない大平原。
戦時には戦車が一気に駆け抜けた。
それがポーランドの悲劇の一因でもある。
午前10時を過ぎても気温は上がらない。
太陽は、厚いグレーの雲の向こうにかくれんぼ。
まずは世界遺産旧市街広場近くの青空マーケットへ。
買い出しのワルシャワっ子は厚手のコート、毛糸の帽子と完全武装。
売り子のおねえさん、おじちゃんたちの顔もこわばっている。
買い物を済ませると、みんな足早に去っていく。
でも子どもは風の子、元気いっぱい。
校外学習なのだろうか、旧市街広場の近くで20人くらいの集団と出会った。
仲良く手をつないでいる。カメラを向けると笑顔が広がった。
まるで西洋人形、とてもかわいい。スーツケースに一人入れて帰りたいくらいだ。
「チャイニーズ?」。先頭の女の子から尋ねられた。
「ノーノー、ジャパニーズ」。分かってくれたのだろう、大きくうなずいた。
石畳の道、風情はあるが歩きづらい。
街角のカフェで一休み。この寒さ、オープンカフェは営業休止。
言葉は通じないが、なんとかケーキセットを注文した。
かなり甘いケーキ、ボリュームもすごい。一人では食べきれない。二つ頼まなくてよかった。
コーヒー二つと合わせ19ズロチ(855円=1ズロチ45円)。
1ズロチをチップとしてテーブルに残した。
落書きは洋の東西を問わないのか。
ワルシャワ芸術大学の壁にも一面の落書き。
世界遺産指定エリア外なのがせめてもの救いか。
午後2時になったが、太陽は姿を見せない。
甘いケーキを食べたせいか、お腹もすかない。
1944年のワルシャワ蜂起の記念碑へ足を伸ばした。
ワルシャワ市民18万人~25万人が犠牲になったワルシャワ蜂起。
ナチスに追われて市民たちは、地下水道にもぐって抵抗を続けた。
アンジェイ・ワイダ監督「地下水道」は、この悲惨な戦いを描いている。
記念碑の戦士が見つめる先に、「地下水道」入り口が保存されている。
何の変哲もない四角い穴。花束が添えられてなければ、見過ごしてしまいそう。
「地下水道」のモノクロのシーンがフラッシュバックした。
【写真1】青空マーケットじゃなく灰空マーケット。買い物を済ませた人たちは足早に去っていく
【写真2】子どもたちは元気いっぱい。笑顔がかわいい。まるでお人形さんだ
【写真3】あまりの寒さにオープンカフェはテントを畳んで店じまい
【写真4】カフェのケーキセット。安くてボリュームたっぷり
【写真5】ワルシャワ芸術大学壁面の落書き。心ない奴はどこにもいるんだ
【写真6】ワルシャワ蜂起記念碑。まさに地下水道に潜ろうとしているところ
【写真7】写真右側、歩道のビル沿い花が飾られているところが地下水道入口
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2007年11月15日
超安心ホテル~ポーランドこぼれ話<1>
ワルシャワで宿泊したのは、新市街ど真ん中にある四つ星ホテル。
35階建て、エレベーターは低層階用と高層階ように分かれています。
わが部屋は13階のツイン、もちろん禁煙ルームです。

大きな部屋の窓から繁華街が一望できます。
写真中央にそびえるのがワルシャワ文化宮殿です。
ソ連の指導者スターリン(当時)から贈られたもの。
モスクワ(現ロシア)にも、全く同じものがそびえています。
最上階が展望台になっており(その他のフロアはオフィスなど)、
1989年の東欧革命の後はワルシャワっ子に開放されています。
ホテルから鉄道ワルシャワ駅までは徒歩2分、
ワルシャワで一、二を争うデパートも目の前。
夜11時まで営業の大型スーパーも、片道5分とかかりません。


外国人使仕様なのか、バスタブはゆったりロングサイズ。
らくらく足を伸ばして、寝転がるようにして疲れを癒す。
アメニティーも充実していますが、なぜかヒゲそりと歯ブラシは置いてありません。
このホテルの最大の美点は、セキュリティーに優れていることです。
これはエレベーター、ある操作をしないと行き先階のボタンが押せないのです。
もちろん、エレベーターは微動だにしません。
その秘密が、行き先階のボタンの右側にあります。
さて、このエレベーター、どうすれば動くのでしょうか。
正解者にプレゼントはありませんが、名回答をお待ちしています。
【写真1】ホテル13階から望む文化宮殿。左側植え込みの向こうがワルシャワ駅
【写真2】35階建て高層ホテル。ロビーがある1階はヨーロッパ式だと0階になる
【写真3】ホテルのエレベーター。右側の部分にセキュリティーの秘密がある…
★ ★ ★ ★
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35階建て、エレベーターは低層階用と高層階ように分かれています。
わが部屋は13階のツイン、もちろん禁煙ルームです。

大きな部屋の窓から繁華街が一望できます。
写真中央にそびえるのがワルシャワ文化宮殿です。
ソ連の指導者スターリン(当時)から贈られたもの。
モスクワ(現ロシア)にも、全く同じものがそびえています。
最上階が展望台になっており(その他のフロアはオフィスなど)、
1989年の東欧革命の後はワルシャワっ子に開放されています。
ホテルから鉄道ワルシャワ駅までは徒歩2分、
ワルシャワで一、二を争うデパートも目の前。
夜11時まで営業の大型スーパーも、片道5分とかかりません。


外国人使仕様なのか、バスタブはゆったりロングサイズ。
らくらく足を伸ばして、寝転がるようにして疲れを癒す。
アメニティーも充実していますが、なぜかヒゲそりと歯ブラシは置いてありません。
このホテルの最大の美点は、セキュリティーに優れていることです。
これはエレベーター、ある操作をしないと行き先階のボタンが押せないのです。
もちろん、エレベーターは微動だにしません。
その秘密が、行き先階のボタンの右側にあります。
さて、このエレベーター、どうすれば動くのでしょうか。
正解者にプレゼントはありませんが、名回答をお待ちしています。
【写真1】ホテル13階から望む文化宮殿。左側植え込みの向こうがワルシャワ駅
【写真2】35階建て高層ホテル。ロビーがある1階はヨーロッパ式だと0階になる
【写真3】ホテルのエレベーター。右側の部分にセキュリティーの秘密がある…
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2007年11月14日
不屈の意志~ポーランド紀行<3>
ブッ、ブッ、ブッ~。なんの音だろう。白濁した意識の中で、記憶が少しずつ覚醒した。
電話の音だ。ここはワルシャワのホテル。腕時計を見ると午前9時をすぎている。
昨夜、フロントにモーニングコールを頼んでおいたのだ。
長い旅路、疲れがたまっていたのだろう。
泥のように眠り込んだ。夢すらも見なかった。
でも、不思議と不快ではない。どちらかといえば、さわやかな目覚めだった。

のんびり身支度を整え、ホテル1階(ヨーロッパ風に言うと0階)のレストランへ。
日本にいるときは朝食は食べないのだが、朝食セットなので食べないともったいない。
午前10時前、ピークを過ぎているのか広いフロアに客は数組だけだ。
朝食はバイキング。ハム・ソーセージが10種類、チーズも豊富に並んでいる。
気候が厳しい風土のせいか、緑色の野菜はほとんど見当たらない。
ロングソーセージにかぶりつく。ポリポリと食欲をそそる音。肉汁が多く、これはいける。

午前11時、ガイドと合流しワルシャワ観光へ。
ワルシャワ旧市街は丸ごと世界遺産に指定されている。
旧市街は車の乗り入れが禁止されているので、徒歩で巡ることになる。
正午近いのに、気温は上がらない。灰色の雲が空を覆い、強い風が鋭い針のように頬をさす。
セーターの上にダウンジャケットをはおっているが、身も心も凍りつきそうだ。
石畳の道、風情はあるが歩きにくい。


バロック、ルネサンス、ゴシック様式のレンガ造り…重厚だがカラフルな建物が軒を連ねる。
16世紀にタイムスリップしたような錯覚に陥った。
でも、この建物群は第2次大戦後にすべて再建されたものなのだ。
歴史は1944年に遡る。市民たちがナチス打倒に立ち上がった。ワルシャワ蜂起だ。
しかしソ連軍(当時)に見離されたこともあり、2ヵ月後に完全に鎮圧される。
ワルシャワ市民18万人~25万人が犠牲になった。

ナチスは報復としてワルシャワを徹底的に破壊、歴史を秘めた街並みは瓦礫の山と化した。
ワルシャワ市民はくじけなかった。不屈の意志で、街の再建に乗り出した。
再建といっても新しく作ったのではない。
写真やスケッチ、歴史資料、人々の記憶をもとに瓦礫を一つ一つ積み上げていったのだ。
壁の色はもちろん、壁のひび1本まで忠実に再現した。
ユネスコは1980年、人々の不屈の努力を認めて旧市街を世界遺産に登録した。

2時間近く歩き回っただろうか。お腹の虫が目を覚ました。
ランチは旧市街そばのレストラン。家族連れや若者たちでにぎわっている。
バルシチは発酵させたビートを使った鮮紅色のスープ。
ポーランド民族料理で、ロシアのポルシチと名前は似ているが全く別物だ。
恐る恐る(?)、口をつけた。紛れもなく野菜スープだ。野菜嫌いに飲めるはずはない。
メーンは虹鱒のソテー。カラリとしながらも、ホクホクとした虹鱒はうまい。

ワルシャワの人々を首都再建に立ち上がらせたものはなにか。
東にロシア、西にドイツ、南にオーストリア。
大国の狭間にあり、分割・併合の悲しい歴史を繰り返してきたポーランド。
祖国への強い愛情、誇り、そして人々の強い絆。
石畳の道を歩きながら、わが祖国、わが広島に思いをはせた。
この灰色の空のように重い宿題を背負わされた憂鬱な気分になった。
<ワルシャワ>ポーランド首都。現在の人口は175万人。作曲家ショパン、物理科学者キュリー夫人の生誕地。重厚で壮麗な建造物が連なり、「北のパリ」とも称えられた都だ。
【写真1】四つ星ホテルの朝食バイキング。ハム・ソーセージ、チーズは豊富だ
【写真2】世界遺産ワルシャワ旧市街広場、重い灰色の空、心まで沈んでしまいそう
【写真3】旧市街宏広場に残る16世紀の手押しポンプ。いまも水が出るという
【写真4】旧市街広場に通じる石畳の坂道。人々の服装はすっかり冬支度だ
【写真5】旧市街にめぐらされていたレンガの城壁。一部しか残っていない
【写真6】バルシチ。浮かんでいるには餃子の皮みたいなもの
【写真7】ランチのメーンは虹鱒のソテー。付け合せは茹でたジャガイモ
★ ★ ★ ★
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電話の音だ。ここはワルシャワのホテル。腕時計を見ると午前9時をすぎている。
昨夜、フロントにモーニングコールを頼んでおいたのだ。
長い旅路、疲れがたまっていたのだろう。
泥のように眠り込んだ。夢すらも見なかった。
でも、不思議と不快ではない。どちらかといえば、さわやかな目覚めだった。

のんびり身支度を整え、ホテル1階(ヨーロッパ風に言うと0階)のレストランへ。
日本にいるときは朝食は食べないのだが、朝食セットなので食べないともったいない。
午前10時前、ピークを過ぎているのか広いフロアに客は数組だけだ。
朝食はバイキング。ハム・ソーセージが10種類、チーズも豊富に並んでいる。
気候が厳しい風土のせいか、緑色の野菜はほとんど見当たらない。
ロングソーセージにかぶりつく。ポリポリと食欲をそそる音。肉汁が多く、これはいける。

午前11時、ガイドと合流しワルシャワ観光へ。
ワルシャワ旧市街は丸ごと世界遺産に指定されている。
旧市街は車の乗り入れが禁止されているので、徒歩で巡ることになる。
正午近いのに、気温は上がらない。灰色の雲が空を覆い、強い風が鋭い針のように頬をさす。
セーターの上にダウンジャケットをはおっているが、身も心も凍りつきそうだ。
石畳の道、風情はあるが歩きにくい。


バロック、ルネサンス、ゴシック様式のレンガ造り…重厚だがカラフルな建物が軒を連ねる。
16世紀にタイムスリップしたような錯覚に陥った。
でも、この建物群は第2次大戦後にすべて再建されたものなのだ。
歴史は1944年に遡る。市民たちがナチス打倒に立ち上がった。ワルシャワ蜂起だ。
しかしソ連軍(当時)に見離されたこともあり、2ヵ月後に完全に鎮圧される。
ワルシャワ市民18万人~25万人が犠牲になった。

ナチスは報復としてワルシャワを徹底的に破壊、歴史を秘めた街並みは瓦礫の山と化した。
ワルシャワ市民はくじけなかった。不屈の意志で、街の再建に乗り出した。
再建といっても新しく作ったのではない。
写真やスケッチ、歴史資料、人々の記憶をもとに瓦礫を一つ一つ積み上げていったのだ。
壁の色はもちろん、壁のひび1本まで忠実に再現した。
ユネスコは1980年、人々の不屈の努力を認めて旧市街を世界遺産に登録した。

2時間近く歩き回っただろうか。お腹の虫が目を覚ました。
ランチは旧市街そばのレストラン。家族連れや若者たちでにぎわっている。
バルシチは発酵させたビートを使った鮮紅色のスープ。
ポーランド民族料理で、ロシアのポルシチと名前は似ているが全く別物だ。
恐る恐る(?)、口をつけた。紛れもなく野菜スープだ。野菜嫌いに飲めるはずはない。
メーンは虹鱒のソテー。カラリとしながらも、ホクホクとした虹鱒はうまい。

ワルシャワの人々を首都再建に立ち上がらせたものはなにか。
東にロシア、西にドイツ、南にオーストリア。
大国の狭間にあり、分割・併合の悲しい歴史を繰り返してきたポーランド。
祖国への強い愛情、誇り、そして人々の強い絆。
石畳の道を歩きながら、わが祖国、わが広島に思いをはせた。
この灰色の空のように重い宿題を背負わされた憂鬱な気分になった。
<ワルシャワ>ポーランド首都。現在の人口は175万人。作曲家ショパン、物理科学者キュリー夫人の生誕地。重厚で壮麗な建造物が連なり、「北のパリ」とも称えられた都だ。
【写真1】四つ星ホテルの朝食バイキング。ハム・ソーセージ、チーズは豊富だ
【写真2】世界遺産ワルシャワ旧市街広場、重い灰色の空、心まで沈んでしまいそう
【写真3】旧市街宏広場に残る16世紀の手押しポンプ。いまも水が出るという
【写真4】旧市街広場に通じる石畳の坂道。人々の服装はすっかり冬支度だ
【写真5】旧市街にめぐらされていたレンガの城壁。一部しか残っていない
【写真6】バルシチ。浮かんでいるには餃子の皮みたいなもの
【写真7】ランチのメーンは虹鱒のソテー。付け合せは茹でたジャガイモ
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2007年11月11日
旅立ち・下~ポーランド紀行<2>
午後6時、アリタリア航空機はミラノ空港に無事ランディング。
日本時間だと午前1時。広島の自宅を出てから、すでに18時間が経過しています。
さらに2時間半のトランジット、ポーランド首都ワルシャワまで2時間半のフライトが待っている。

そもそも、なぜポーランドへ旅をするのか。
わが旅行計画を聞いた友人たちは「なぜ?」「なにがあるの?」といぶかしがった。
なにがあるのかといえば、そこにアウシュビッツがあるからなのです。
第2次大戦中、ナチスによってユダヤ人150万人が虐殺されたアウシュビッツ(総数に異論もある)。
原爆投下で甚大な被害を受けたヒロシマ・ナガサキと並んで、
20世紀の人類の最大の愚行と言われています。
復興に立ち上がった広島に生を受け、広島で育った生粋の広島人として、
いつかはアウシュビッツを訪ね、その実相を学びたいと思っていました。
紆余曲折はあったものの、その思いが今年果たされようとしているのです。


ミラノ空港の搭乗待合室で、本場のカプチーノ(1ユーロ=170円)でのどを潤す。
午後8時半、再びアリタリア航空機に乗り込み、ワルシャワへの最終フライト。
通算3度目の機内食、冷えたサンドイッチとドリンクがサービスされました。
ワルシャワ国際空港に着陸したのは午後11時(日本時間午前6時)。
深夜のせいか、ほとんど人気はない。両替所もすでにシャッターが下りている。
入国審査もなにごともなく終了。空港建屋から外に出ると、吐く息が白くなった。
デイバッグにつけている温度計を見ると、なんと摂氏3度。
日本は25度だったから、夏から冬へ一気に季節が変わったことになる。
あわててジャケットの前ボタンを閉じるが、体の芯まで一気に冷え込んだ。


あわてて迎えの車に乗り込み、ワルシャワ中心部のホテルへ。
チェックインをすませ部屋に荷物を下ろしたときには深夜零時を過ぎていた。
広島出発が午前7時。24時間余りの長い長い旅路だった。
【写真1】霧にかすむアウシュビッツ収容所ゲート。「働けば自由になる」の看板が空々しい
【写真2】ミラノ空港で飲んだカプチーノ。本場だけに安くてうまい
【写真3】機内食3食目。硬くて冷たいパン、ワインだけ飲んだ
【写真4】ワルシャワの4つ星ホテル。大きな窓、清潔なベッドがうれしい
【写真5】外国人仕様のゆったりした湯船。アメニティーもまずまずだが、髭剃り・歯磨きはない
★ ★ ★ ★
T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク
日本時間だと午前1時。広島の自宅を出てから、すでに18時間が経過しています。
さらに2時間半のトランジット、ポーランド首都ワルシャワまで2時間半のフライトが待っている。

そもそも、なぜポーランドへ旅をするのか。
わが旅行計画を聞いた友人たちは「なぜ?」「なにがあるの?」といぶかしがった。
なにがあるのかといえば、そこにアウシュビッツがあるからなのです。
第2次大戦中、ナチスによってユダヤ人150万人が虐殺されたアウシュビッツ(総数に異論もある)。
原爆投下で甚大な被害を受けたヒロシマ・ナガサキと並んで、
20世紀の人類の最大の愚行と言われています。
復興に立ち上がった広島に生を受け、広島で育った生粋の広島人として、
いつかはアウシュビッツを訪ね、その実相を学びたいと思っていました。
紆余曲折はあったものの、その思いが今年果たされようとしているのです。


ミラノ空港の搭乗待合室で、本場のカプチーノ(1ユーロ=170円)でのどを潤す。
午後8時半、再びアリタリア航空機に乗り込み、ワルシャワへの最終フライト。
通算3度目の機内食、冷えたサンドイッチとドリンクがサービスされました。
ワルシャワ国際空港に着陸したのは午後11時(日本時間午前6時)。
深夜のせいか、ほとんど人気はない。両替所もすでにシャッターが下りている。
入国審査もなにごともなく終了。空港建屋から外に出ると、吐く息が白くなった。
デイバッグにつけている温度計を見ると、なんと摂氏3度。
日本は25度だったから、夏から冬へ一気に季節が変わったことになる。
あわててジャケットの前ボタンを閉じるが、体の芯まで一気に冷え込んだ。


あわてて迎えの車に乗り込み、ワルシャワ中心部のホテルへ。
チェックインをすませ部屋に荷物を下ろしたときには深夜零時を過ぎていた。
広島出発が午前7時。24時間余りの長い長い旅路だった。
【写真1】霧にかすむアウシュビッツ収容所ゲート。「働けば自由になる」の看板が空々しい
【写真2】ミラノ空港で飲んだカプチーノ。本場だけに安くてうまい
【写真3】機内食3食目。硬くて冷たいパン、ワインだけ飲んだ
【写真4】ワルシャワの4つ星ホテル。大きな窓、清潔なベッドがうれしい
【写真5】外国人仕様のゆったりした湯船。アメニティーもまずまずだが、髭剃り・歯磨きはない
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T上司ランチ漫遊もヨ・ロ・シ・ク



